普通コンプレックス
2018.12.06先日撮った写真について妻に質問した。1つは立ったまま普通に撮ったもの。1つはアングルを低くして撮ったもの。どっちがいい?と聞くとどローアングルの方だと言う。普通のアングルの方は、何せ「普通」だから、ということのようだ。物の考え方は、僕はへそ曲がりな少数派、妻は典型的な多数派で、少し変わった感じの方がプロっぽくていいんじゃない?というのが妻の言い分である。
普通という言葉に強く反応する人には、2つのタイプがあるようだ。1つは普通でないと嫌なタイプ、もう1つは普通だと嫌なタイプ。僕の知っているクリエイターにとにかく「普通」を嫌う人がいて、自分以外の仕事について「普通すぎる」と難癖をつけるが、その割にその人の仕事はとってもノーマルで、それを指摘するのは大人気ないのであえてしない。僕の場合、意味もなく奇をてらった表現が嫌いで、わざわざ意味をわかりにくくするキャッチコピーや難解なデザインを否定してきた。普通だけれど非凡でありたい。そう願いながらデザインの仕事をしているが、そういう人知れず努力する職人芸は、残念ながらあまり評価の対象にならないのがこの世の中である。役割をきちんと果たすかどうか?ということより、面白そうだし社長が了解してるからという理由で決定する発注主と下請けばかりだ。多額の予算をかけたテレビCMに、相変わらずくだらないものが多いことが物語っている。
隣の人と同じような服を着て、同じようなライフスタイルで満たされたい。多数派で平均的でいることを「普通」と考えて固執する考えの人はおそらくとても多い。その情熱は凄まじく、普通でなければ不幸だと思いこんでしまうほど。僕と妻は子供をつくらなかった。ある日、実家に帰って子供の話題になったとき、クリスチャンの母が「みんな子供をつくってるんだから…」と言って僕を驚かせた。普通という数が決めるルールには、宗教も歯が立たない。例えば、平和な日々の普通と災害時や戦時中の普通は違う。さらに、宝くじが当たったとか借金取りが玄関のドアを叩いているとか、個人的な状況にも左右される。普通、というのは普遍的な事実ではなく、曖昧な思い込みに過ぎない。
写真を撮るとき、汗とか涙とかため息とか体から液体や気体が分泌されるような感動的な写真を撮るぞと思うこともあるが、それとは逆に何でもない静かな情景に「こういうのもいいよね」となってシャッターを切ってしまうことも多い。現像するとき再びその写真を見て「平凡だけど何かいいね」と思って捨てずにとっておくのだ。